年金はねえ
男の脱衣場から中年男性の声高な会話が聞こえてきた。
年金の話のようである。
「国民年金は決まった金額だし、厚生年金はちょぼちょぼしかもらえないから、とっても年金だけじゃやっていけないんだ」
「俺も年金の年数が少ないかちょぼちょぼよ。だから何かしなけりゃ家賃も払えないからねえ」
昨今、高齢化時代を反映して年金の話題は結構多い。敬老入浴に見えられる人達の多くは年金生活者のようでもある。60過ぎた毎日の常連男性が数年前失業して
「どうしようか。貯金なんかないしなあ」
と途方にくれていたのでアタシは
「年金はないの?」
と聞いてみたんだ。そしてもう一言
「役所で聞いてみたら?」
とも付け加えた。
「年金?、まだ62だからなあ。あれは65才からなんでしょ?」
「いや、65前でも貰えるらしいよ」
ということで数日後
「区役所で聞いてみたら案外もらえるんだよね。助かったよ。これで仕事が見つかったら家賃を払って少しは小遣いも出るしね」
と、嬉しそうに報告されたことがありましたなあ。
先ほどの中年男性氏がフロントで今度はアタシに年金の話を振ってきた。
「今、年金のことを話していたんだけど、ダンナも年金をもらってんの?」
「年金ねえ……。国民年金は振り込まれているけど一体いくらなんのかねえ」
「国民年金だとン年掛けて2ケ月にン万円でしょ?」
「さあ……」
アタシャ、しがなくても湯屋稼業をやってるもんで、年金のお世話にならなくて何とか食ってはいける、で、どのくらいの金額が振り込まれているかもよく知らないんだ。まあ、日銭商売だから食うにはなんとか困らないんで、年金に対してはどうも無頓着だったんですが、これではいけませんな。しかしねえ、どっちにしてもアタシャ国民年金だけでは食うことはとうてい覚束ないでしょうから終生アクセクと働かなきゃなりませんなあ。
そんなとき今日、一通のはがきが届いた。A生命保険会社「年金お支払い及び手続き省略のお知らせ」っていうやつだ。アタシャお客さんと年金の話をしたばっかりだから
「は〜てな、この年金は年に1回なのかな、それとも数回払われるのかな」
と遅まきながら年金に目覚めたんですわ。そこでA社に電話で問い合わせてみたんだ−−。ここからは年金の本題から外れるけどね。
A社の担当だという女性が出てきていう
「お客様はこの保険のご本人様でしょうか」
から始まり、住所だ生年月日だなんだかんだと細かく聞いてくるんだな。アタシャ、年金が年払いかどうかの一点を聞けばいいのに電話のせいか、イヤハヤ細かく身上調査なんだ。個人情報保護法とやらで何とも面倒臭いご時世になってんですねえ。
そういえば「山本夏彦箴言集・ひとことで言う」にこんなことが書かれていましたっけ。アタシャ、この本が大好きなので時々引っ張り出して引用させてもらっているんだが、今日も書かせてもらおう。
《本人が本人であることを証明するのはいま困難である》
−−銀行に新しい口座を開こうとしたら、お使いではいけない、本人に来て頂きたいと言われた。本人が本人であることを証明するのはいま困難である。この十何年文学者の間にアイデンティティが論じられたのはこれかな。ついに自分が自分であることの証明が庶民に必要になったかと私は苦笑した。
昔は米穀手帳を持参すればよかったが今は写真が貼ってなければならないという……たまたま持参していた自分の文庫本には写真と略歴が載っている。名刺もあるといったら、文庫も名刺も『官』ではない『私』であると断られた。
自分を自分であることを証明するのは困難である−−。ほんとですよねえ。
そのうち銭湯でも初めてのお客さんに対して
「アナタのお名前なんてえの?」
といちいち聞くような時代に……ならねえよなあ−−。






