風呂屋のオヤジの番台ブログ

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2007年01月31日

盗難はねえ

 午後11時過ぎ、もうラストラウンドだ。そんな時、常連の70近いおばちゃんが「履物がなくなっちゃったの」とフロントへやってきた。

「サンダルなんだけどあたしはいつも下駄箱のカギを取らないから持っていかれちゃったのかねえ」と心配顔である。

「サンダルがない?。カギは掛けたまんま?。いたずらされちゃったかな」

「女物のサンダルなんだけど、もっていかれちゃったんじゃない」

「いや、昔ならともかく、今は履物なんか取って行くヒトはまずいないんですよ」

「でも……」と心配そう。

 昔を知る人はモノが紛失するやすぐ盗まれたという感情になる。湯屋稼業の長いアタシにはその気持ちがわからんでもない。しかしねえ、モノ余りの現代ではお金ならともかく履物や衣類などを持っていく人はまずいないと言っていい。大方が間違ったかあるいはカギを掛けなかったというのでイタズラをされたクチなんである。が、念のためアタシャ合鍵で下駄箱を一応点検した。しかしどこにもない。そこでおばちゃんに申し上げたよ「たぶん間違って履いていったと思うけど、店が終わったらもう一回全部見てみますよ。間違ったのなら代わりの履物が残っているから、今日はとりあえずうちのサンダルを履いてってよ」おばちゃん、アタシの再三言う「間違いかイタズラ」の言葉にはどうも釈然としないようだがしょうがない。代わりのサンダルでお帰りになったんである。

 今、昔ならいざ知らず−−と言ったが、確かにその昔は衣類・履物の紛失盗難が多かったんである。戦後のモノ不足の時代にはなんでも貴重品だったからその貴重品が脱いである銭湯の脱衣場は「貴重品狙い」にとって格好の場所だったようである。これは「板の間稼ぎ」と呼ばれほとんどが常習犯だったのであり、この「板の間稼ぎ」の仕業は江戸時代から絶えることがなく、番台には何とも頭の痛い問題だったのである。

 アタシがこの稼業に入った昭和20年代はロッカーがなく、衣服を入れる籐でできた脱衣篭があって客はその篭に着衣を脱いで入浴したんである。当時は何しろゴッタ返しのイモ洗いというお客さんの数である。脱衣場には足の踏み場もないほど篭が並ぶ。そこで番台は板の間稼ぎに対応するため女中さんを「添い番」という形で見張りに置いたのである。しかし「板の間稼ぎ」はプロでありその手口は巧妙で「添い番」が目を光らせていようともそのスキを狙って犯行に及ぶケースがままあったんだ。とにかく盗難の現場検証に来たお巡りさんが「これだけ混んでいたらあたしらが張り番をしても難しいだろう」と言っていたほどであるからその対応の難しさは想像がつこうというものだ。

 それが昭和30年代にロッカーが導入され、併せて高度成長期になって庶民が裕福な階段を駆け上がる時代となるに及び、衣服への価値観もそんなに大きなものではなくなったのである。と同時に板の間稼ぎも急激に減ったが、新しく出てきたのがロッカーを合鍵などで開け金品だけを抜き取るという「ロッカー荒らし」という不逞な輩である。しかし近年は合鍵を作りにくい錠前も開発されてきてその数はぐんと減ったが、何しろロッカー荒らしは常習である。あの手この手と考えてきて犯行に及ぶからいつまでたっても油断ができない。

 とにかくロッカー荒らしの対抗策は「入浴に貴重品を持ってこないことに尽きるんだが実際にはなかなかできないことだ。そこでどこの浴場でも「貴重品は番台にお預けください」の表示をしておく。ということでここでお客さんへのお願いが一つ。万一貴重品を持参したらかならずフロントへ預けてくださいね。このブログをかりて心よりお願いします。

 さてさて、初めの履物紛失の結果に戻ろう。閉店後、下駄箱を全部チェックしたんだな。そしたらおばちゃんが入れたという下駄箱にサンダルがちゃんと入ってるじゃないか。う〜んやっぱり……。間違って履いていった人が後刻そっと戻しておいたんですな。おばちゃんさあ。明日お見えになったらちゃんと説明しますからね。でも盗られたんじゃなくてよかったよねえ−−。

2007年01月30日

あつ湯はねえ

 今日ね、アタシにとって珍しいな……と思うお客さんが来たんだ。それも別々にお二人もね。何がめずらしいかって。実は入浴前にフロントで浴槽温度を確認してからまた改めて入浴に見えたんだよね。銭湯の温度については時折聞かれることがあるから、さほど珍しくもないんだが、事前確認をして出直されるなんてアタシにゃ記憶がねえなあ。それがお二人とも30前後の若い人で一見(いちげん)さんなんだ。そこで「現在の銭湯を知らない世代の銭湯観」についてちょいと参考になるなと、このネタをブログに書いて見ようと思ったんだ。

 まずは最初の男性、夕方だったな。手ぶらでフロントへ見えて「ちょっとお聞きしたいんですけど、お風呂の一番熱い温度は何度ぐらいですか?」というご質問だ。「そうね、うちは高温・中温と浴槽を分類してあるけど一番熱いので真ん中の深風呂で43度程かなあ。そして中温がバイブラ、ショルダー風呂で一番低いのが薬湯になっていて40度以下でしょうな。別に細かく設定はしてないけどね」

「そうですかあ、僕ねこの間あるお風呂屋さんへ行ったら46度もあったんですよ。46度なんかとても入れませんよ」

「そう。だけどゃそんなに熱いと思ったら埋めればいいじゃない」

「ええ、けどうるさそうなオヤジがあんまり埋めるなっていうんですよ」

 ホウ、うるさそうなオヤジがねえ、そういえば江戸川柳に《町内の憎まれ者があつ湯好き》なんていうのがあったっけ。平成の御代にも江戸川柳が生きていましたかあ。

「なんであんなに熱くしておくんですかねえ」

「ま、古い銭湯の常連さんは今でもピリピリするような風呂を好む人が結構いるんだよね。しかし銭湯に慣れてないアンタたちに熱過ぎるっていうのは風呂の設備にもよるんだ。うちの場合は全部自動調整になっているけど、従来の設備はオカン(温管)という熱湯を浴槽にパイプで循環させ、その熱で湯を絶えず熱くしておく仕組みでね、お客さんが熱いと感じたら水を出してうめるんだよね。そうすることによって風呂のお湯の量も減らないし温度も適温になるということなんだ」

「そうですかあ、でも熱いのはねえ」

「まあ今の若い人は平均的にぬる湯を好むけど、今言った昔からの常連さんで高齢の人はあつ湯を求めるから、ぬる湯だけじゃ物足りないんだよね。だからは全般的に家庭風呂からみると温度は高いだろうな、とにかうちの風呂に一回入ってみたら」

 ということで後刻、また見えたんだが、小一時間の入浴後言う。

「やっぱり熱いですねえ。一番低い薬湯のお風呂がちょうどよかったけど」

「そう。うちの風呂なんか子供でも慣れてる子は一番熱い風呂でも平気で入ってるよ。アンタもぬるま湯みたいな風呂ばっかりじゃなくて銭湯の風呂に早く慣れなよ。すぐいいお風呂だって思うようになるから」

 続いては7時過ぎかな。二人目の男性が、同じような質問をされた後、表へ出て今度は女性を連れてお出でになった。そして入浴後アタシの「どう、熱かった?」の言葉に「いいえそんなに。だけど僕たち銭湯は初めてだけど、今の銭湯っていいんですねえ」というご返事よ。初手の人とは大違いだな。

 近年の銭湯は様々な機能が開発・導入され、不特定多数のお客さんに柔軟に対応できる浴場が増えてんだよな。したがってね、江戸時代から続く「銭湯は熱い湯」という定説も現在は家庭風呂の人がよくいうけど「銭湯はとっても温まる」といった評価に変わっているとアタシャ思ってんだ。

 昨今、銭湯を知らなかった若い世代が折りに触れてノレンを潜ってくれるようになっている。これは嬉しい傾向だ。若い人たちは「いいものはいい」と評価してくれるから風呂屋のオヤジは老弱双方に対応できる銭湯の価値観をさらに構築するよう、今後とも頑張っていかなきゃなんねえよな。

《今、銭湯に湯のぜいたくがある》。アタシの年中使うフレーズをまた書いて今日のブログの結びとしよう。アンタたちも早く銭湯の贅沢に慣れてよ−−。

2007年01月28日

おじいちゃんはねえ

 男湯から2才ぐらいの男の子のギャアギャアという声が響いてくる。それとともに70半ばのおじいちゃんの叱るようなきつい声も聞こえてくる。先ほど入った小学校3年ぐらいな男の子にグズっている幼児とオジイちゃんの3人連れである。ジイちゃんが幼児のオムツを取り替えようとしてんだが、子供は言うことを聞かない。あまりにうるさいので脱衣場へ出向いた。オムツにはべっとりとウンチがついている。ジイちゃん悪戦苦闘だ。「こんなところで拭かないで風呂場で洗ってやんなさいよ」。ジイちゃん「しょうがないなあ」とうるさい幼児を抱えて浴室へ入った。シャワーでお尻を洗い流しているようだが、チビは相変わらずギャアギャアとうるさい。

 このジイちゃん、久しぶりに見えたんだが、アタシャこの人にはあまりいいイメージがないんだ。以前見えた時に上の男の子がシャワーを出しっぱなしにして騒いでいたんで、そばにいた中年の男性がちょいと叱ったところ、ジイちゃん子供に注意しないでその男性に食ってかかったんだな。「小さい子供がちょっとぐらい騒いだからって文句を言うな!」ということなんだが、常識的に注意した男性だって逆に怒られたんでは間尺に会わない。で、ジイちゃんとの間に険悪な空気が流れたよ。アタシャ、ジイちゃんの怒り声に「何事ならん」と脱衣場へ飛んでいったんだが、事情を聞いて一応その場を収めたんだが、それにしてもいくら孫が可愛いったって盲愛では子供がよくなりっこないやね。孫に甘いのも結構だが少しは躾も考えなよ、という経緯(いきさつ)があったんだ。

 さて話を戻そう。先刻の3人が小一時間の入浴で上がってきた。しかしここでもチビがまたキャンキャンとやっている。合間にジイちゃんの「コラッ!、ちょっと静かにしなッ」という大きな声も聞こえてくる。またまたウルサイ。そこでアタシもまたまた出向いたよ。ジイちゃんがオムツを取り替えようとしてんだがチビは一向に言うことを聞かない。椅子の上に寝そべり足をバタバタだ。ジイちゃんの言葉などまるっきりである。ジイちゃん、よっぽど軽くみられてんだ。ナメられちゃてんだな。これじゃあギャアギャアは収まるわけがないやね。そこでアタシが一喝だ。

「コラッ、おじいちゃんの言うことを聞かないとオモチャも貸してやんないぞッ、アメもあげないからなッ」

 アタシ普段でも甘ったれた子供にはよく叱るんだ。といっても怒鳴りつけるわけじゃないが、子供は他人の、それも風呂屋の人間に言われたとなればなんとなく静になるんだ。子供心にも怒られる相手の色合い?は分かんだよな。

 このチビも知らないおじさんに怒られたってことが分かったんだろう。急に静かになっちゃった。アタシャ、ジイちゃんに言ってみた。

「うちでは甘やかされているだけでお母さんたちは怒らないんだね」

「ウン、家にばっかりいるから知らない人だと固くなっちゃうようなんだね」

 ジイちゃん、他人のアタシの一喝にもこの前の様に目くじら立てることもなく、むしろホッとした感じさえ見せたよ。

「オジイちゃんは一緒に住んでんじゃないんだね?」

「そうタマに遊びに来るんだけど、わがままで困っちゃうんだ」

「うちン中にばっかりいるとそうなっちゃうよね。こういう人の多い場所へ来ると子供もしっかりしてくるけどね」

「そうなんだねえ」

 ジイちゃん、今日は前と違って神妙?じゃないか。わがままな孫との付き合いで変わったな。

「さッ、ちゃんと洋服を着たらオモチャを返しにきな。ご褒美にアメをやるからな」

 子供は服を着せてもらい、オモチャを持ってフロントへやってきた。

「ようしエライぞ。いい子にはアメだ。ビスケットもあるぞ」

 子供はいたって素直である、アメにビスケットをもらい嬉しそうにジイちゃんに報告している。ジイちゃんも帰り際に珍しく「すみませんでした」というじゃねえか。ホウッ、ジイちゃんも孫への姿勢がマトモ?になったな。これならシャワーを出し放しにしても今度は子供を叱るだろう。成長したか?−−。

2007年01月27日

個性的なおばちゃんがねえ

「オヤ、個性派おばちゃんが見えましたな」。週に2回ほどお出でになる独り住まいで78才になられるというおばちゃん。この人の会話がまた個性的?なんですなあ。そこで今日はこのおばちゃんの個性的会話?を書いてみよう。

 この人ね、リュックを背負い手提げ袋を持ってのスタイルで、なんと当湯(うち)から1キロ近くも離れたお住いからいつも歩いてくるんですって。スゴイですよ。度の強いメガネをずり落ちそうにして、白髪のひっつめ髪を無造作に束ねた格好でヨッタンヨッタンと(ゴメンネ)お出でになる。

 今日はフロント前で「あ〜あ」と軽くタメ息をつかれ、そして言う。

「この頃は歩いてくるのがシンドクなってきたわね、だから帰りはバスにしたの。だけどさ人間無理しても歩かなくちゃどんどん年を取っちゃうもんねえ」

「しかし必要以上に無理をするとかえってよくないんじゃないの?」とはアタシ。

「でもね、無理してでも歩くようにしなくっちゃますます歩けなくなるわよ。だから最近は歩きながら号令を掛けるの。口ん中でイッチニッ・イッチニッってね。そうすっと調子が出んの」。

 ホホウ、号令を掛けてねえ−−。

「ところでさあ、ダンナさんは歩くの?」

 オンヤ?風向きがアタシに吹いてきましたな。

「アタシ?、アタシは歩かないんですよォ。ここに座っているか住まいの机の前でクダラナイ文章を書いているぐらいだからねえ」

「歩かない?、そりゃダメよ。人間、年を取ると足から弱っていくのよ。ちょっとでもいいから歩きなさいなッ」

 ハハア、仰せごもっとも−−。

 この方の口調は何やら母親が子供に諭すような雰囲気があるよ。お言葉、傾聴しなくっちゃね。さらに続けられる。

「じゃ、何か運動でもしてんの?」

「運動ねえ。それもしないなあ」

「そりゃダメよ。あたしね、寝るときフトンの中で手や足を挙げたり曲げたり開いたりをかなりやるの」

 おばちゃん、両手を上げたり下げたりしてみせる。

「そうすっと汗が出てくるからいい運動になるのね。ダンナさんも今度やってごらんよ。簡単なことだもんね」

なるほどねえ、寝床の中で足を挙げたりしながらオイッチニッですかあ。これなら確かに簡単だ。しかしねえアタシャ寝酒をやってから布団に入るからオイッチニッ!とやる前に眠くなっちゃうなあ−−。

 次のお客さんが見えた。おばちゃん話に興が乗ってきたか、そのお客さんが入るのを待ってまた続編に進まれる。

 このおばちゃんに限らず、独り住まいの方は普段会話が少ないせいか銭湯などで饒舌になられる人が意外に多いんだな。そんな時、アタシャこれもフロント業務と、できるだけ耳を傾ける(フリをする)ようにしている。

「ダンナさんはテレビを見る?」

「あまり見ないほうでしょうなあ。テレビより本が好きだからね」

「そう、それはいいわ。あたしはテレビが大好きでヒマがあると年中見ていたんだけど、テレビは目によくないわねえ。何となく目がぼうっとしてきたのよ、そいでね、これはテレビのせいだと思ってテレビは見たい番組だけを朝起きると新聞に印をつけて、なるべく見ないようにしたのよ」

「ホウ、それで?」

「ウン、そうしたらぼわ−っとしたのが取れて遠くもはっきり見えるようになったのよ」と、メガネを鼻から離してちょいと先を見るような仕草をした。ホウ、テレビの時間を少なくしただけでねえ。

「おばちゃんは意志が強いんですなあ」

「そうかな、タバコも好きで一ンちニ箱ぐらい吸っていたんだけど、今は二日に一箱も吸わないわね。ダンナさんはタバコは?」

「ええ、もう……」

「ダメよツ、本数を少なくしなきゃあ体によくないし、やる気があればできんのよ」

 やる気ですかあ、それがねえ−−。

 おばちゃん、ずり下がったメガネをちょいと持ち上げ、さ〜て説法終了?とばかり「お喋りをしちゃったからお風呂に入るか」とやおら脱衣場へ向かわれたが、おばちゃんねえ、お風呂ん中で手や足を上げたり下げたりするのもいい運動になるんですよ。だからオイッチニッとやってみて−−。

2007年01月26日

相撲の八百長がねえ

 朝起きてまず朝刊を見ることが一日の始まりなんだが、今朝はテーブルに置いてある新聞の見出しをチラッと眺めただけで「エ〜ッ……」とタマゲちゃったよ。スポーツ紙が例によってドでかい活字で「朝青龍八百長疑惑・7力士事情聴取」の大見出しじゃないか。一人天下の横綱が八百長だぜ。驚かないほうがおかしいやね。まずは記事の出だしから書いてみよう。

「22日発売の週間現代が横綱・朝青龍の八百長疑惑を告発した件に関し日本相撲協会が、関与したと報じられた力士への事情聴取を行っていたことが24日、明らかになった。すでに7人の幕内力士と朝青龍の師匠である高砂親方の聴取を終了。週明けには4大関と朝青龍、仲介役とされる旭天山の事情聴取を行う。現時点では全力士が疑惑を否定しており、相撲界が組織を挙げて潔白を主張する」となっているんだが、九州場所で全勝を達成した朝青龍の取り組みを検証。15番のうちマトモな相撲は4番しかなく、モンゴル出身の旭天山が仲介役となり、1番80万円で星を買っていたってんだ。オドロイタねえ。1場所で11番が八百長であり、その中に大関全員が含まれてもいるんだ。常識ではそんなこと有り得ないと思うがねえ。事情聴取で全員が当然否定したとあるが、当り前だ。しかし、検察などが容疑者を調べるのと違い身内が身内に事情を聞くんじゃ「そんなことやってません」と言うに決まってるよな。

 大相撲の土俵で八百長がしばしば行われてことはちょっと相撲に詳しい古いファンなら大方が知っているだろう。八百長をコンチワ相撲といい、相手に現金を渡すことを注射と呼び、それを仲介するヤツを中盆などと称したことも知っているだろう。しかしなあ、大横綱といわれる朝青龍が取り組みの大半に注射を打っていたなんて、ビックリ仰天だ。ホントかよォと思うよ。

 そこでアタシャもうちょっと詳しく……っていうことで、火元である週間現代を家人に買ってきてもらったんだ。

 週刊誌には表紙から「横綱・朝青龍の八百長を告発する、外国人力士全盛の国技はここまで汚れていた!」と大きく載っており、文中では朝青龍の全15番を写真入りで掲載しそれぞれに解説をつけている。告発人は現役力士のX氏だという。これもオドロキだ、現役力士がねえ。それだけにちょっと信憑性も…と思わせる感じもしなくない。このX氏が八百長問題を細かく述べているんだ。「……朝青龍は横綱になる前から注射相撲をやっています。関脇・大関時代のドルジ(朝青龍の愛称)は携帯電話で対戦相手と星のやりとりをしていました。このことは複数の対戦相手が漏らしています……もっとも横綱になってからは、注射の相手に直接電話をかけるのはヤバイと思ったのでしょう。専門の仲介者である中盆を通して勝敗のやりとりをしていたそうです……とにかく今の横綱の注射の多さは尋常ではない。一番80万とというのが横綱の星を買う場合の相場といわれていますが、その取り組みの重要度や対戦相手の番付によっては100万円のこともあれば50万以下のこともあるそうです……」。

 さらに、横綱自らが取り口の指示をしていたなんてことも話している。その他、仲介者のこと、相撲界に蔓延する花札賭博でマン札が飛び交い、博打の損害のために注射に応じた力士の姿などなど、まさに腐敗した相撲界の現状を洗いざらい?書かれているんだ。

 そして「次号ではもっともっと詳しく角界の八百長構造をリポートする」と結んであるんだが、これだけ書かれたら、そうでなくても落陽の大日本相撲協会は危急存亡の状態に陥っちゃう。当然厳重抗議をするとともに法的手段に訴えることも視野に入れて準備を進めているというが−−。

 アタシャこのブログで相撲のことをよく取り上げ、初場所にも書いたが、いつも「朝青龍の強さは絶対ではない。周りが不甲斐無さ過ぎる」とボヤクんだが、こうなっちゃうと不甲斐無いのもコンチワ相撲じゃ当り前ってことじゃねえか。さ〜てどうなるこの結末は−−。

2007年01月24日

納豆がねえ

「ダンナさん、納豆好き?」

「納豆?、嫌いじゃないけどあんまり食べないなあ」

「そう、あたしは大好きで、しょっちゅう食べてたんだけど、テレビでこんなに騒がれると、何か納豆が悪い食べ物みたいに感じちゃうわねえ」

「でも、納豆にダイエット効果がなかったからって、味には関係ないんじゃないの」

 という会話は常連の60おばちゃん。穏やかな口調で話ぶりも控え目な方である。昨今の「納豆問題騒動」はフロントにも進出してきましたなあ。

 ということで今日は世情を騒がせている納豆問題について、またまたエラソーに風呂屋のオヤジが社会時評?と参りますかな。

 今日の新聞は一面にデカデカと「納豆ダイエット・うそ!」の大見出しである。テレビ番組の「発掘!あるある大辞典」で放映された納豆のダイエット効果の内容が「データの誇張があって、実際には行っていない実験データを放送した」っていうんだな。そして、番組が納豆効果を取り上げてから、ちまたでは「納豆ブーム」が巻き起こった。放送後は各地の小売店で納豆が品切れ状態になり、大手納豆メーカーなどが全国紙に品薄状態に対応できないことを「おわび」する広告をだすなど、異例の事態になっていたっていうんだ。平均視聴率15%、影響力絶大の人気番組で裏切り・捏造とも報じられていたっけ。

 アタシャこのニュースを見てまず思ったのは「随分大げさに騒ぐんだなあ、そんなに大層な問題なのかねえ」だった。ま、個人的なことだがあたし自身は納豆食って太ろうが痩せようと関心がないし、番組の内容がウソだからといったところで興味がない。アタシャ、テレビはニュースか好きなスポーツ番組しかみない。したがって「あるある大辞典」も見たことがないし、今日ビのテレビの主流をなしているお笑いとかのタレントがギャアギャアやっている番組などまるっきり見る気がないんだ。テレビが差ほど好きじゃないんだよね。

 今回の納豆問題ではテレビの有り様が大きく問われているようだ。しかし、こんなことを言うとぶん殴られそうだが、民放のテレビ番組ってその大半が作り事かあるいはヤラセ的なもんじゃないのかなあ。一にもニにも視聴率だから視聴率のためなら「なんでもあり」になっちゃってるように見えるんだよな。

 昨日も「そのまんま東の知事選」について書いたときに触れたけど、テレビの影響力はまさに「恐い」の一言である。たった小一時間の放送で全国の納豆が品切れになったというが、以前「アド街ック天国」というテレビ番組で、あの世界の王さんのお父さんのお弟子さんだった人が、現在うちの近所で「五十番」というラーメン屋さんをやってんだが、その五十番のお店を紹介されたら、翌日「五十番」の前に長蛇の列ができたんでタマゲタもんだったが、テレビが右だって言えばみ〜んな右を向いちゃうようなご時世なんよねえ。

 さてさて風呂屋のオヤジの生意気なテレビ時評も終わりとして、また納豆に戻ろう。あたしの好きな夕刊の「よみうり寸評」にこの納豆について載っていたので、タメになったからその一部を抜粋させてもらい今日の〆としようか。

「…斎藤茂太さんの著書〈納豆の如く〉に納豆の伝説や歴史にも触れている。もっとも有名なのは八幡太郎義家の納豆伝説。奥州遠征で納豆を兵糧にしたという話だ。納豆の名の起こりは寺の納所(なっしょ)で作ったからだと〈本朝食膳〉にある。納豆は室町時代から親しまれ、江戸時代さらに普及した。〈山寺に寒さをたたく納豆汁〉は芭蕉。〈納豆と同じ枕に寝る夜かな〉は一茶。〈朝霜や室の揚屋の納豆汁〉は蕪村……納豆が長く庶民に好まれたのは安く、うまく、栄養があるからだ。ダイエットにいいなど捏造のTV番組は余計なお世話と納豆は怒っている」

 先ほどの奥さんさあ「納豆はうまくて栄養がある」と新聞にも載っていますよ。だから、それこそテレビの余計なお世話に惑わされず、これからもど〜んどん食べなさいな−−。

2007年01月23日

そのまんま東がねえ

 7時、いつもこの時間に見える60代の男性が、フロントへ来るや開口一番「そのまんま東が当選したねえ」という。この人、話し好きで来る度にアタシと世間話に興じていくんである。

「そうだってねえ。少々驚いたなあ」

「あんなお笑いタレントが県知事を勤まんのかねえ」

「ま、大阪の横山ノックの例もあるけど、県の実務は副知事以下職員がやるんだろうから、職員の舵取り通り動いていりゃあ格好はつくんだろうが、だけど、そのまんま東とはねえ」

「ほんと、今の選挙ってテレビに取り上げられたほうが勝ちだもんなあ。現在は完全にテレビ時代だよなあ」

 なんとなく慨嘆された様子で脱衣場へ入られたが、お客さんならずともアタシだっていささかビックリし、ちょっぴりガッカリもしましたよ。

 官製談合事件による前知事の辞職に伴う宮崎県知事選の開票が昨日行われ、無所属の元タレントであるそのまんま東が圧勝した。圧勝である。

 今朝の新聞は普通紙はもとよりスポーツ紙も一面トップで大々的に報じていた。アタシャ「ウ〜ン」と唸っちゃった。開票即当確っていうんだからねえ。

 東が県知事に立候補したときは「お笑い芸人に何ができる?」と泡沫候補の扱いだったという。アタシも泡沫だろうと思っていた。参議院議員のタレント候補ならともかく、一国の県政を担う知事なんてとてもとてもおこがましい。

 ところが新聞の中間予想では優勢が報じられてきた。しかしこの時点でも「まさかホントに当選はすまい」と見ていたんだが、開けてビックリ玉手箱。タケシ軍団の一タレントであり、女性問題などなどで問題児扱いをされていたタレントが一躍県知事さんだ。おそらく東本人が一番ビックリしたんじゃないか。

 それにしても自治行政の専門家といわれる立候補者が無名であるばかりに、政治には全くのド素人であり、テレビで知名度があるだけの人間に蹴落とされてしまった現実にはアタシならずとも憮然とした人が多かったんじゃないか。

 新聞の分析を書いておこう。

「県政刷新が課題だったはずの県知事選。だが、ここでも保守陣営に派閥争いや分裂劇が続いたことで、県民が嫌気を起こし、しがらみのなさで現状を打破するよう求めた結果が、東氏勝利につながった……東氏は『支持政党なしの無党派層』の56%から支持を得ただけでなく、自民党支持層34・8%、民主党支持層の48・6%からも票を獲得した…政治評論家は「……勝因は自民、民主の保守分裂にある。漁夫の利を得た格好だ」

 棚からボタ餅、瓢箪から駒−−だったんである。敗れた保守陣営は大ショックであろう。評論家はこうも言ってたな「今後、地方行政でタレント候補が数多く出てくる可能性はある」とね。そうかなあ、そうそう柳の下にドジョウはねえ……。これからの東知事は、当分、行政は官僚任せでタレントでの知名度を生かして宮崎県の広告塔的存在だけであろうな。だが当選の抱負の中で「県政の刷新の一つとして県議会議員の定数削減も考えている」と述べていたが、県政を覚える前からヘンに格好つけてマスコミ向けの姿勢が強過ぎると、海千山千の県議会と対立し、あの田中前長野県知事の二の舞をしなけりゃいいがねえ。シロウトはまず勉強であろうよ、と風呂屋のオヤジはエラソー言うがね。

 先刻の男性に続いてアタシャ2、3のお客さんに聞いてみた。

 まずは50過ぎの運送屋の運転手さん。「ウン、宮崎県は改革を求めていたんだよ」。ホウ、改革ときましたな。顔に似合わない?お言葉ですなあ。

 次いで昨年会社を定年退職された60半ばのヒト。

「そうね、あの顔は横山ノックよりいいから、いくらかやるんじゃないの」。

 顔が……ですかねえ。

 近所の自営業のヒトは「なんだか知事が安っぽくなっちゃったなあ。いつまで持つかが問題だな」である。皆さん一地方県知事の選挙にも関わらず程々の関心をお持ちでしたね。これもテレビの影響力でしょうなあ。テレビはいいにつけ悪いにつけ人心を左右するスゴさがある恐い存在だよ−−。

2007年01月21日

学校が週5日にねえ

 60半ばと思われる男性。奥さんと一緒に見えたんだが、一足早く上がってきたのでフロント前の椅子に座って奥さん待ちである。テレビが夕方のニュースで「学校、週休2日の見直し」を報じていた。

「学校が土曜日曜の2日も休むなんて俺はとんでもないって思っていたんだけど、それをやめるっていうんだからいいことだよ。オヤジさんはどう思う?」

 とアタシに話を向けてきた。

「ウン、アタシも賛成だね」

「でしょうッ、学校が休みを増やすなんて、これはね教職員が世間並みに週休2日を求めていたからそうなったんだと思うんだ」

「う−ん、そうですかねえ」

 なかなか厳しいご意見ですなあ。でもなんとなく分かるような気もしますな。

 朝刊に「学校5日の見直し・再生会議報告案・外部評価も導入」の見出しでトップに掲載されていた。ちょっと記事の概要を書いててみよう。

「週5日制度は92年から月2回と段階的に試行され、2002年度に公立学校で完全実施された。子供が家庭や地域で過ごす時間を増やし、考える力や生きる力をはぐくむのが目的だったが、授業時間が削減されたことで、学力低下の一因とも批判されてきた。最終案は今後の検討課題として学習時間と学習リズムの確保の観点から学校の休日や学校週5日制を見直すと明記した……」

 実はねアタシもこの制度が発効された時、どういうこっちゃ……と思ったんだよね。「子供が学校へ行かないで家庭や地域で過ごすことが、なんで『ゆとり』なんかいな」と疑問に思ったもんだ。一介の風呂屋のオヤジが教育制度に疑問を投げかけても始まらんけどね。当時、アタシャ風呂にくる小学生に聞いてみたんだ。

「学校が土曜日も休みになってどう思う?」

「ウン、いいなあと思うよ」

「でも、学校へ行かないと学校で友達と遊ぶ時間が少なくなってつまんないんじゃないか」

「ウウン、ちっとも。学校が休みでも友達と遊べるもん」。

「じゃ友達とどんなことをして遊ぶんだ?」

「ウン、ゲームコーナーへ行ったり、あっちこっちで遊べるもん。休みが多いほうがいいよ」

 なんて言った子供が多く、ほとんどの子供が休日の増えたことを喜んでいたんだ。アタシャなんとなく今の小学生の有り様を教えられて、これが『ゆとりある教育』かと憮然としたなあ。

 そしてね小学生の母親なんかにもちょっと聞いてみたんだが、お母さん方は総じて反対だったねえ。

「休みが増えてもその分勉強するわけでもないし、遊んでばかりいていいことがないわよ」というご意見もあったしねえ。教育ママ的な母親は塾通いに時間を多く使うようになるかな。そうなりゃ『ゆとり』どころか子供にとっては窮屈千万だろうよ。

 アタシの小学校から中学に掛けては家庭に帰ってきて友達と遊ぶということは少なかったなあ。疎開という事情もあり家が間借りだったから、友達を呼ぶこともできなかった。それと新潟の小さな町で家屋も密集していないから近所で遊ぶこともほとんどなかった。で、放課後も学校の校庭なんかで目一杯遊び回ったんだ。日暮れまで帰って来ないことも多く、母親に怒られてもいたなあ。そんなだから学校が休みだとつまんなかったよ。とにかく学校で仲間と遊ぶことが学校へ行く目的でもあったんだんだ。けどさ、今の学校ってそんなに『ゆとり』がなく勉強勉強でアクセクしてんのかねえ。周囲の子供を見回してもそんな感じはしないがなあ。

 それにしても、文部省のオエラ方は学校5日制にして授業時間の削減が子供の学力低下につながるなんて考えなかったのかなあ。今の子供は裕福そのものに育っているし、家ん中でやれテレビだゲームだナンダカンダって遊びにこと欠かないから『学校以外で考える力や生きる力をはぐくむ』な〜んてできるわけがねえだろうに。今度新しい制度についてまた子供に聞いてみよう。けどゼッタイハンターイって言うに決まってるよな−−。

2007年01月20日

パチンコはなあ

 男の脱衣場から声高な会話が聞こえてくる。パチンコ談義のようである。大きな声は50前後の毎日の男性。フロントではほとんどお喋りをしないが脱衣場で球友(パチンコのね)に会うやとたんに饒舌になるようだ。パチンコ屋の状況から戦況について地声が大きいせいかフロントへもよ〜く聞こえてくる。

 しかし、三箱積んだけどどうのこうのと、パチンコには全くの門外漢であるアタシには通じない内容である。今のパチンコはその昔の手で弾く機械とは異なり、全てがコンピュータ−作動になってるようだ。それだけに万単位の金額がポンポン出てくる。今やパチンコは競馬と並んで、いやそれ以上にギャンブル化しているようですなあ。聞いているとお相手の男性もそうだが、パチンコ屋へ行くことが日課にもなっている様子である。程々仕事もしてるんだろうがアタシにはパチンコこそ生き甲斐のようにも聞こえてくる。

 昨今、脱衣場の会話はパチンコが主流になってるようだ。以前なら酒のことから飲み屋の話、どこぞのスナックの女の子がどうしたなどと遊びの話が多かったんだが、世知辛いご時世と高齢化時代のせいか景気のいい話声は聞かれない。中年以下は前述したパチンコ・競馬であり、高年者はとにかく健康の話である。血圧が、血糖値がウンヌンから後は年金が多い・少ないだけであるからどうも冴えない。野球、相撲人気の低下でスポーツの話題も少なくなっているし、女湯では精々テレビの話が出てくる程度である。湯上がりの脱衣場は気分爽快なんであろうからもう少し明るい話題がほしいなあと思わぬでもない。

 先ほどからのパチンコ談義の中にまた一人マニアが加わった気配で一段と盛り上がっているようだ。パチンコこそわが人生、まことに楽しそうですなあ。

 パチンコというと思い出す男性客がいる。かって毎日の常連だったが3年程前に引っ越して姿を見せなくなった。この男性はアタシに年中パチンコの話をしていたんだ。当湯(うち)では究め付きのパチンコマニアだったんじゃないか。

 4年程前に「全浴新聞」の「風呂屋のオヤジの日々往来」というコラムにこの人のパチンコマニアぶりを書いたことがあるんで、今、その新聞を引っ張り出してもう一回このブログに登場してもらおう。

 この人ね、40代の男性なんだが、フロントへ来るとまず挨拶替わりに一日のパチンコの成果を報告なさるんだ。パチンコはやったことがないアタシなんだけど「ホウホウ、それで……」などと適当に合槌をうつもんだから結果報告は義務?とでも思ってるようなんですなあ。で、何でもよく喋る。

「いやあ、もうダメです。今日だけで3万円やられちゃった。最初は結構出たんだけど、ぜ〜んぶ呑まれちゃってもうスッテンテン。あんまり出ないからマネージャーに文句言ってやったんです。こんなにやられたんじゃ家賃も払えないよって。「マネージャーなんて言った?」「スイマセンだけですよ」

そりゃあそうだろう。遊びに負けたヤツにいちいち同情していたら商売にならんもん。おそらく腹ん中で笑っていたんじゃねえの。ギャンブラーはもっと毅然としなくっちゃあ。

 このヒトね、簡単なパートをしているだけで大した稼ぎがないようでパチンコの資金に窮すると奥さんから何がしかの小遣いをせびっていたらしいんだ。

 しかし奥さんだってコンビニのパートをしているとかでそうそうは融通ができないから、こんな情け無いボヤキもしていたっけ。

「うちのやつも最近は軍資金を回してくれなくってねえ。金がなければ出ていってホームレスでもなんでもやんなッ!って怒っちゃうんですよ」

 家を出てホームレスでもなんでもやれッとはまたキツイが、この人にはプライドもヘチマも持ちあわせていないようでなんとも面白い。ま、奥さんのヒモみたいな生活をしてるんじゃ怒られてもしょうがないであろうよ。

 あれからもう3年、顔を見ないが相変わらずパチンコ三昧なんだろうなあ。

 まさかホントにホームレスをやってんじゃないだろうな−−。

2007年01月19日

銭湯の始まりはねえ

「昨日もらっていった新聞を読ませてもらったけど、銭湯って400年も前からあったんだねえ」とフロントに話しかけてきたのは50代の常連男性。機械関係の職人さんらしいが、明るく話し好きの人である。

「昨日の新聞?。ああ『どすこいかわら版』ね。そう読んでくれたの」

 というイントロから今日のブログは始まるんだが、「どすこいかわら版」は以前、このブログでも紹介したけど、墨田区の高齢者福祉課支援担当の中にある「て−ねん・どすこい倶楽部」というシニア世代が社会参加のできるように手助けするという組織なんですな。そこで出している情報紙が「月刊・どすこいかわら版」ということで、墨田区の各浴場にも置かれているんだ。

 そしてね、アタシごときに「今月から何か書かないか」ということになり「風呂屋のオヤジの独り言」なる雑文を書き出したっていうことなんだよね。今回、第一回ということで江戸時代に始まったという銭湯の起源についてちょいと書かせてもらったんだが、しかし「どすこいかわら版」はA4の4ページ程度だからアタシの書くスペースも限られている。で、ほんのサワリだけ、上っ面を撫でたような文章なんだ。そこで「かわら版」を補足する意味からこのブログでもう一回おさらいをしてみようと思ったんだ。聞いてくれるかな?。

 さて、東京の銭湯の発祥は今から400年余り前の天正19年(1691)で徳川家康が江戸へ入った翌年だという。古いねえ。しかし大阪はその前年の天正18年で、奈良・京都には1200年代にもう銭湯があったんだってさ。800年も前だよ。だから、こと銭湯に関して東京は後進国ってことになるかな。

 そしてね、江戸の銭湯の元祖は関西から出てきたという伊勢の与一って人なんだ。伊勢っていうから先進国?である関西は三重あたりの人なのかなあ。

 エッ、そんな古いことをよく知ってるって?。そうッ、風呂屋のオヤジならこの程度の知識は当り前でさあ……と言いてえんだが、実はぜ〜んぶ風呂の本の受売りなのよ。アタシがお江戸の昔に生きてたわけじゃないからねえ。

 そいでね、伊勢の与一が銭湯を始めたのは江戸は銭瓶橋のほとりだっていうことになってんだよね。この銭瓶橋ってね、橋を架ける工事中に土ン中から永楽銭の入った瓶がでてきたんで銭瓶橋となったっていうんだけど、伊勢の与一ちゃんもそんな縁起を担いでここで店開きをしたんだろうねえ。

 なにッ?、銭瓶橋ってどこにあんだって?。ウン、今の呉服橋と常磐橋の中間で丸の内1丁目近辺らしいよ、だけどね、今頃掘ったって銭瓶は出てこないと思うよ。この銭瓶橋界隈は家康による江戸城改修と江戸の町づくりのために諸国から建築資材が陸揚げされる拠点だったそうで。おまけに出稼ぎの人間も全国から集まってきたから大変な賑わいをみせていたんだってさ。

「だけど与一の風呂ってどんなもんだったの?」。ウン、いい質問だ。与一風呂は今でいう蒸し風呂のようなもんだったらしいんだ。なんでも小屋ン中に石を置き、その石を焼いて水をそそいで蒸気を出し、その上にスノコを設けてそこに入っていたと書いてあるな。

「ホウ、石を焼いてねえ。そんなんじゃかなり熱いんだろうねえ?」

 そッ、最初のうちは熱いし、煙にはむせるしで、さすがの江戸っ子もたじろいだっていうことなんだ。しかし粋がるのは江戸っ子の常さ。そのうち慣れちゃったら熱さも爽快感に変わり、もう連日の大繁盛だったんだってさ。それでね、与一風呂の成功が引き金になって江戸に銭湯がどんどん増え、20年後の慶長年間には各町に湯屋ができ、その数500軒余にもなったらしいねえ。

 そんな銭湯隆盛をみて当時、最高のインテリだといわれた三浦浄心という学者が「慶長見聞録」ってえ本を出して銭湯模様を後世に書き残したんだって。

「フーン、江戸の銭湯はすごかったんだねえ。ところで平成の銭湯の景気はどうなの?。あまり忙しくないように見えるけど……」

 ウーンなあ、アタシャできるもんなら江戸の戻りたいよォ−−。

2007年01月16日

巨人軍のキャプテン

 相撲のテレビを見ながらかな、脱衣場から中年男性の声が聞こえてきた。

「相撲はツマンナイねえ。だけどさ野球もツマンナクなったよなあ」

「ほんと去年のジャイアンツはもう話にならんかったもんなあ」。

 確かに。昨年はテレビで巨人戦を掛けていたら「また負けてやらあ。オヤジさんよォ、バレーボールに回してよ」などという声が飛んできたもんなあ。こんなことそれこそ前代未聞だったよ。それ程昨シーズンの巨人はだらしがなかった。ということで今日は先日の相撲に続いて野球の話を書いてみようかな。

 さて凋落の巨人軍、今年はどうか。原監督が当然首をかけてのシーズンになるんだろうが、工藤、桑田、仁志を放出して若返りをはかり捲土重来を期した結果が圧倒的に多い脱衣場G党を満足させられるか。野球人気の回復は一にも二にもプロ野球の盟主を任じる巨人軍の動向に掛かっているからねえ。

 今日の読売夕刊に「G名選手の系譜 阿部、主将に」の見出しで、今年の巨人軍の18代目の主将に阿部慎之助捕手が就任した−−と報じていた。それと一緒に巨人軍の歴代主将名も載っていた。アタシャ、阿部が主将になろうがなるまいが、そんなことより歴代キャプテンの名前を眺めて、オールドファンにはプロ野球の70年の歴史の一部を垣間見るようでもあったからね。

 まず1935年の初代主将・二出川延明に始まってそうそうたる名前が並んでいる。アタシャ子供の頃は熱狂的な軍国少年だったんだが、戦争に負けちまった戦後は一転、野球少年になったんだ。まだ小学生だったが、当時の野球雑誌をむさぼり読んだねえ。だから古い野球記事も未だになんとなく覚えているんだな。で、歴代主将にアタシの我流解説を添えて並べてみよう。

 2代目がプロ野球初期の盗塁王・田部武雄、以下後の名審判・津田四郎、後年の名将・水原茂、和製ベーブといわれプロ野球初の三冠王・中島治康、そして伝説の速球王・沢村英治に日本初のスライダー投手・藤本英雄、猛牛・といわれた千葉茂、左の怪腕・中尾碩志、さらに赤バットの川上哲治から名手・広岡達朗にファイター捕手・藤尾茂と続き長嶋、王と並び、やはりV9戦士の柴田勲に吉村禎章ときて昨年の小久保、今年の阿部となるんだな。

 第11代主将だった理論家・広岡達朗の「模範行動伝える伝統守れ」の一文も載っていたな。広岡は言う。「特にこれと課せられた仕事はなかったがやはりリーダー的、模範的な行動が求められた。千葉茂、川上哲治ら第2期黄金時代を築いた歴代主将は、チームメートが思慮を欠いた態度をとると厳しく戒めたといい、巨人とはこううもんだ、ということを先輩が後輩にきちんと伝えていた」さらに「近年の風潮は何をやっても『自分だけ』で、後輩を注意したり教えたりすることがなくなった」と言う。

 なるほど、この「何をやっても自分だけ」という風潮は今日ビの世間一般に通じるんじゃないかなあ。銭湯に来る若い人なんかも往々にしてこのような傾向が見られるもんね。

 ま、それはともかく、アタシね大巨人軍復活に求められることが一つあると思うんだ。シロウトの傍目八目だが、松井が抜けた後 ジャイアンツの主軸を担うのは阿部でもなく上原でもない。高橋吉伸だと思うんだよ。

 高橋が巨人打線の不動の4番に座り、全軍を叱咤するリーダーシップを発揮できたら、いや、そうすべきだと思うんだが、KOボ−イのお坊ちゃんなのかねえ。いつまでたっても、あっちが痛いこっちが悪いってさっぱり頼りにならない。かってのO・Nのような強烈な牽引車になれとは言わないまでも、もうちょっといい意味でのアク?が強かったらなあ、とは思うねえ。

 さてさて、G党でもない風呂屋のオヤジが巨人についてゴタクを並べちまったけど、昨今の巨人不振からのプロ野球の人気低落は巨人ファンならずとも心配なんでさあ。今年は脱衣場に歓声が上がるようなシーズンにしてよ原さん。

 巨人の人気がないと脱衣場にも活気がないんだよなあ−−。

2007年01月15日

カラオケはねえ

 夕方、表はまだ薄明るい。そんなところへ出てきた70過ぎの男性。「風呂にも入ったし、これからカラオケに行くんだ」と言う。

「ホウ、こんなに早くからカラオケですかあ」

「ウン、そこの○○は昼間からやってるんだ。千円でちょっとドリンクがついてカラオケ唄い放題なのよ」

「ホウ、千円じゃアルコールは出ないんですな」

「ウン、ジュースだけ。でも結構客が来てるよ」

なるほどねえ、アタシらはカラオケなんか酒の余興的なもんだと思ってるけど、最近は高齢者がカラオケだけを楽しむことが増えてんですってねえ。脱衣場でもカラオケ談義はよく聞こえてきますもん。今や老弱を問わず一億総カラオケ時代なんですなあ。カラオケは高齢者に生活の潤いをもたらせましたな。

「オヤジさんはカラオケやるの?」

「アタシ?、アタシャ歌が下手だからカラオケは酔っぱらった時ぐらいですかなあ」

「そう。○○へ行くとさあ、知らないおばちゃんたちとデュエットなんかしちゃって面白いよ」

 ホホウ、昼間のカラオケボックスはお年寄りの社交場にもなってんですなあ。腰の曲がり気味なおじちゃんとおばちゃんが肩寄せあって、♪愛しちゃったのよォララランラン〜♪な〜んて、こりゃあ楽しいでしょうなあ。川柳に「もう一度 投げてみようか老いの恋」というのがありましたなあ。

 アタシャ、このお客さんとの会話で、なんとなく若かりし頃のカラオケのない時代のバー・スナックでの遊びを想い出してみた。

 カラオケが普及したのは昭和40年代半ばからじゃないか。それまでのバーといわれる店にはレコードが流れているだけだった。ときどきギターを抱えた流しの演歌師がやってきて客のリクエストにより歌の伴奏をつとめたもんだった。30年以上も前になるが3曲100円だったかな。トリスのストレートがシングルで一杯30円、ウイスキーを炭酸で割ったハイボールが50円だったと思う。当時はバーで唄うといえばこの程度であり、客は静かな店で、女の子を相手に会話で酒を楽しんでいた。シャレた会話はこの上ない酒のツマミだった。またカードやダイスを置いて遊ばせる店もあった。

 何にしても落ち着いた雰囲気がバーの特徴だったように思うし、セコセコ、ザワザワしないよき時代だったようにも思う。

 ところが現代のスナックは会話が不要である。落ち着いた雰囲気も邪魔になる。ビールが出て水割り・焼酎が出てグビッグビッとやったら次はマイクが出てくる。伴奏が鳴り歌が始まる。調子っぱずれな歌でも終われば拍手がくる。知らないヒトの唄でもそうである。ろくすっぽ聞いていなくても手を叩く。カラオケ仁義はまことに義理堅いものである。みなさん、スナックの遊びはこういうもんだと心得ているから楽しそうである。

 こんな雰囲気では古い人間、いや唄の下手な輩が女の子と会話を楽しもうなんて気取っても無理である。ヤボっていうもんである。

 そこで思う。今日ビのスナックのママさんは客にマイクを持たせておけばそれなりに遊んでくれるし、歌が終われば「お上手ねえ」とヨイショをする。下手な者には「いいお声ねえ」と言やあ満足してくれるから、昔のように会話で客をもてなす苦労が少ない。ママさん稼業をやりやすくなったんじゃないか。

 今日、休みなので久しぶりにスナックUをのぞいてみた。ここの店とは20年来の知り合いである。先客が二人、80近いご老体で一見さんのようだ。声高に話していたがカラオケが始まった、演歌を大きな声で唄う。ときどき調子が外れるもののご本人はうまそうに唄っている。お二人が交互にマイクを握り合間に「ママも唄ってよ」となる。このママがまた滅法うまいから雰囲気がぐ〜んと盛り上がる。「さて次は北島三郎にいくか……」。もうもう楽しそうである。手持ち無沙汰のアタシはお二人のド演歌を聞くともなく聞いているだけである。

 あ−ぁ、やっぱりカラオケに勝る会話はなしか−−。

2007年01月13日

江戸時代のモミジ袋はねえ

 60前後かな、サウナの常連男性なんだが今日は来るなり「シャボン頂戴」と言われた。

「ホウ、シャボンねえ」

「ええ、オヤジさんが前に銭湯の本に書いていたでしょ?。それで……」

「ああ、そう……」

 この方ね、アタシが広報誌「1010」に書いてる「風呂屋のオヤジのフロント日記」をいつも「面白いんで、出るのを楽しみにしてんですよ」と言ってくれるんだ。で、アタシも時々この「番台ブログ」をコピーして読んでもらっているんですな。話し好きな人で今日は石鹸談義になっちゃったんである。

「オヤジさんの本に書いてあったけど、シャボンが日本で作られるようになったのは明治の初めなんですってねえ」

「そう。ポルトガル語のsabaoがなまっちゃってシャボンと呼ばれたってモノの本には書いてあるけどね。そしてねシャボンが一般的になる前、江戸時代の石鹸は『ヌカ(ぬか)袋ってものを使っていたんだって」

「えっヌカ袋?。それどんなもんなんです?」。

 ということから、アタシの知ったかぶりがまた始まったんだ。

「うん、ヌカ袋ってえのはね、米糠を布に包んだもので、それで体を洗っていたらしいんだね」

「ヘ〜、ヌカ袋ねえ……」

 お客さん、ちょっと感心したふうで脱衣場へ入られた。

 そこでアタシが以前「全国浴場新聞」に書いたコラムを引っ張り出してきてもう一回おさらいをしてみようと思ったんだ。フロントではくどくどとヌカ袋のノーガキを垂れるようなヒマがないんでね。お客さん、後でこのブログをコピーしておくからゆっくり読んでよね。

 ヌカ袋っていうのはね、ポルトガルなどからシャボンが伝来し、国産石鹸の製造が始まった明治6年頃までは、江戸時代から延々と身体を洗うものとして使われていたんだ。その形は米糠を布に包んだもので、大きさは14cm×15cmぐらいでね、晒木綿や紅木綿で袋を作りその中に米糠を詰めるんだって。紅木綿で作った物をモミジ袋って呼んでいたらしいよ。そして餅米のほうがよく落ちるんだってさ。エッ、オヤジは使ったことがあるのかって?。オイオイ、アタシャ老けてみられるけど昭和生まれですがな。どうも外野はウルセエな。

 それにしてもヌカ袋がモミジ袋だなんていいネーミングだよねえ。江戸時代の御新造さんなどが銭湯で立て膝でさあ、モミジ袋で身体を洗っている光景なんか艶やかじゃないのかなあ。アンタそんなこと思わない?。思わないだろうなあ。今日ビの若い人には粋や艶やかなんてえのはもう関係ねえもんなあ。

 そしてねこのヌカ袋の使い方だけど、静かに回してこすっていくんだって。

 そうすっとヌカ汁がよく出て肌のキメが細かくなりお肌ツルツルんなるんだってさ。

 とにかくヌカ袋は入浴の必需品だから当然番台でも売っていたらしいんだが当時のフロ銭8文に対してヌカ袋は4文と比較的高かったんだで、女性は手製のヌカ袋を湯屋へ持ってきたっていうよ。

《二つ三つ 浴衣の切れでヌカ袋》、なんていう川柳があるもんね。

 アタシャ思うんだけど、このモミジ袋は現在のボデイシャンプーなんかよりお肌に効用があったんじゃねえのかなあ。アタシャ、できるもんならフロントに置いてさあ、モミジ袋の似合いそうな?艶やかな感じの女性に勧めてみたいよ。何なにィ?、イイ女はそんなもん喜ぶわけがないだろうって?。そうかなあ−−。だけどアンタねえ、小股の切れ上がった粋な女性がさあ、真っ赤なモミジ袋で身体を洗ってる光景なんか浮世絵の世界じゃねえの。

 エッ、また質問かい?。なんだって?小股が切れ上がった女性って、痔(じ) 持ちのオンナのことかって?。オイオイあのねえ、小股の切れ上がった女性って小粋なオンナの人っていう意味なのッ!。大体、モミジ袋の話に痔持ちのオンナが出てきますかいな。ヤだねえ−−。

2007年01月12日

大相撲初場所

「大関のコケぬ日はなし初の場所」

 いきなりこんな駄句を弄しちゃったけどまた例によって風呂屋のオヤジの相撲談義と参ります。

 今日5日目。全勝が平幕の玉春日一人で朝青龍、琴光喜、千代大海が1敗で追走の展開である。しかし、脱衣場桟敷はいつものとおり「相撲がツマンナイねえ」の一色で じっくりテレビを観ている人はまずいない。

「モンゴル場所だもんなあ」「相変わらず強いのは外人ばっかり」と、聞こえてくるのは批判だけだ。人気の低迷、どこまで続くぬかるみぞ−−。

 古い相撲ファンのアタシも最近は関心が薄くなっている。うっかりしているとテレビを相撲に合わせることも忘れている。脱衣場からの要求もない。かっては早々と「オヤジさん、相撲掛けてッ!」の注文がきたんだけどねえ。

 70半ばの常連ご夫婦が言ってましたな。この方ね、相撲茶屋に知人がいるらしく毎場所、番付をお持ちになってくれるんだ。

「知り合いに招待されたんだけどあたしはつまんないからいかなかった。義理があるから主人に行ってもらったけど」。そのご主人「朝青龍が負けた日だったから面白かったよ。座布団がスゴイんだ。俺も座布団、投げようと思ったけどね」。さらに「久しぶりに行ったけど、ガッラガラなんだ……」

 今日の朝刊に「結び3番オール外国勢・史上初 今の相撲界を象徴」の見出しとともにこんなことが書いてあった。「結びから3番の取組が、すべて外国出身力士の対戦となった。本場所の土俵や力士が控える土俵だまりを外国勢が占拠したのは史上初……日本人力士が低迷する最近の相撲界を象徴する一日となった……初場所番付で幕内力士42人の内、外国人力士は13人。高砂広報部長は「外国勢の多さ、番付を考えればあっておかしくない。今年の相撲界を象徴していることだ」の記事が載っていた。高砂親方は朝青龍の師匠だけに、外人勢の活躍を当然と認めているが、日本人ファンとしては外人に番付が占拠されたような場所に、このままでいいのかよォと思ってしまうんだな。

 というようなことで5日間の土俵に目を向けよう。冒頭の駄句はアタシの感情を端的に表現したんだが、相変わらず不甲斐無い大関陣である。打倒・横綱の気概など毛ほどもみられない。大関が踏ん張らなくては土俵が盛り上がるわけがないだろうに。

 故障上がりの白鵬は稽古不足が歴然だ。これから本場所の一番一番が稽古代わりでそれなりの星は残すだろうが、8番・9番ではどうしようもない。琴欧州も相変わらずバタバタした相撲だ。この二人が朝青龍打倒の急先鋒にならなければまた「終わってみたら朝青龍」になってしまう。今や誰が横綱を倒すかが最大の焦点であるといってもいい。3日目の出島が横綱を押し倒した国技館の熱狂こそ今、ファンが最も望んでいるんだ。

 続いて日本人の大関陣になるが、ポンコツに近い魁皇と一本調子の千代大海さらには毎場所故障が癒えずビッコをひきながらの土俵を努める栃東では期待しろというほうが無理だ。そんな中で関脇・琴光喜が久しぶりに頑張っているが、このままの調子で何とか初場所を盛り上げてほしいなあ。

 アタシャ以前から書いているけど、朝青龍は決して無敵ではないのだ。速くてうまくて強いことは万人が認めるが、マスコミも関係者も「ほかの力士が弱過ぎる」とは誰も言わないなあと思っていたんだが、初日の朝刊に次の様な一文が載っていたんで、それを書いて今日のブログの締めくくりとしよう。

「ここ2、3年の朝青龍のけいこは常に調整程度。そのうえ九州場所前に風邪をひき、腰痛にも悩まされて『ぶっつけ本番状態』だった。そんな朝青龍にやすやすと全勝を許した対戦相手に多く角界関係者から不満の声が続出した。打倒横綱の気迫に欠ける力士が多過ぎるのである。現在の朝青龍は決して磐石ではない。各力士がもう少し工夫して朝青龍戦に臨めば、それだけで連日土俵が活性化するのは間違いない」。

 その通りッ−−。

2007年01月11日

まだまだ色気はあります

 愉快なお客さんなんですよねえ。今日はこのお客さんの愉快なキャラクターをちょっと書かせてもらおうと思うんです。

 まずは外見なんだけど、スラッとした長身にちょっと角刈りふうな髪型なんだが、、本職は畳屋さんだという。ま、根は職人さんなんですな。だとすれば角刈り風の頭もそれなりだが、ところがこの方、奥さんと一緒にダンスサークルを主催なさっているですな。角刈りふうな畳屋さんと一見派手に見えるダンスの先生−−なんとも面白い取り合わせだと思わない?。そんな副業?のせいかいたってお若い。オン年67才だというが、この方の若さの源泉はやはりダンスにあるんでしょうなあ。

 当湯(うち)から何町も離れたところからお出でになるお客さんでもあるがいつも孫の女の子を連れて見えていたんである。ところが最近は独りでお出になることが多くなった。女の子が小学生になったからだという。

「女の子もどんどん大きくなるともう一緒に来たがらなくなったよ。淋しいけどしょうがないよねえ」

「ま、それが自然の流れなんでしょうなあ。しかしお宅は若くみえますなあ」

「そんなことはないよ、もう67だもん。老けたなあと自分でも思うよ。でもこれをやってるからまあ元気なんだね」

 スッと背を伸ばし左手を上げて右手を相手と組むような動作をなさった。ダンスのポーズですな。そんな様子を見ると、普段、畳針を動かして作業をしている姿は想像できない。人は見かけに……ですなあ。そしてね、この人の会話はいつもジェスチャーが入るから聞いていて、いや見ていて面白く楽しくなるんだ。ちょっと滑稽にも見えるんだよね。

 アタシとフロントでよくダンスの話しから昔のダンスホールのことなども話すんだが、アタシのダンスなんて若い時に酒飲んだ勢いで盛り場のクラブやキャバレーでふざけていた程度のものだからとてもこの方のような本格的なソシアルダンスには程遠い。そんな昔話をしてもこの人のジェスチャー入りの会話は愉快である。

「俺も若いときはよくダンスホールへ遊びにいったけど、新橋にあったFなんかへ通ったなあ。広くて暗いフロアの真ん中ではほとんどくっついたまま動かないんだもんねえ。俺もそん中かでもう女とダッコしたまんまチュッチュチュッチュと忙しかったよ」

 と言いながらダンスをする格好で唇をとんがらせてチュッチュという仕草を見せる。フロントの前である。もちろんお客さんの姿が見えないときであるがね。アタシャ思わず笑っちゃう。そこで、もう一つ聞いてみた。

「ダンスサークルに入ってくる人は女性が目当ての人もいるんじゃないの?」

「そッ、いい年こいてそんなのが結構いるけど、しかしオンナ目当てに来るようなヤツはほとんどモテナイね。ダンスもうまくならないし」

「お宅は先生をやってんだからモテルでしょうなあ」

「いや、ダンスをやってるときは一応毅然とした格好をしてんのよ。ヘンに色気を出すとロクなことはないんだ。しかしほんとのところを言うと、幾つになってもこれは好きだねえ」と、小指を一本立てなさった。そして続ける。

「だけどさあ、この頃もうあっちがこんなになっちゃってねえ」と、今度は右手をピンと立てて次にダラッとする仕草をみせた。少々ヒンはないが、この人がやるとイヤ味がない。さらにもう一回「だけどさあ」とマクラを振って「人間幾つになってもイロ気をなくしたらダメだっていうんだけど、俺みたいに実力が落ちてんのに好きなのも困るんだよねえ」と言われたが、いっこうに困ったふうではない。喋っているご本人が面白そうであり、楽しそうである。

 いかがですかな。愉快なお人でしょッ。アタシャよく言うがフロントは人の悪口やグチも時として聞かせられるけど、明るく屈託のないお喋りはまさに銭湯向きなんですなあ。そういえば ♪明るくゥ 明るくゥ 生きようよォ♪ な〜んていう唄の文句がありましたっけ−−。

2007年01月08日

年のはじめの

 今年の正月は休みが多いなあ。といっても世間様のことで、風呂屋は十年一日、営々とだ。

 ハア?、稼ぐに追いつく貧乏なしだって?。働けど働けどわが暮らし楽にならざり、っていうこともあるよ。

 何にしても元日から穏やかな陽気が続いたから、いい新年のスタートが切れたんではないか。風呂屋も2日の朝湯、4日の通常営業の始まり、そして5日の敬老入浴デーと賑やかに推移したんで、順調な滑り出しだったんじゃないかな。

 ところが正月休みの後にやってきた3連休は一転、寒波の襲来とやらで日本列島大荒れになってしまった。裏日本から北海道は大雪と30m余の強風が吹きまくったそうだ。東京は雪こそ降らないものの強烈な風雨と厳しい寒さが押し寄せてきたねえ。折角順調に走り出した新年もこれで一頓挫ということになっちまった。ちょっとその様子をスケッチしてみよう。

 まずは5日の商売。朝から氷雨が降り続き、客足も当然ながら鈍い、いや鈍いというより店は閑散たるもんだった。まあこの悪天候の中、足を運んでくれるだけでも感謝せずばなるまい。そして今日6日。朝から日が照っている。

 ホホウ予報は荒れるということだったが、この分じゃ昨日の不振を取り返せるな思ったら、なんとなんと午後から強風が吹き荒れた。おまけにやたらと寒い。時折突風が吹くのか店の前のお客さんの自転車がなぎ倒されちゃったよ。

 寒さに強風の2重奏だ、これに雨が加わっての3重奏とでもなりゃあまさにアキナイ万事休すのとなるんだが、天も少しは慈悲があったか、降らないだけが救いだったよ。そんな状態だから客足もいたって悪かった。しかし前段で述べたように、こんな風雨の厳しい中をようこそと思わなくてはなるまいて。

 さて3連休はもう一日ある。そこで宮沢賢治ということになる。昨日雨降り今日は風吹き明日晴れるか。晴れてくれないかなあ−−。

 ぽつぽつと寒風の中をお見えになるお客さんに、今日はお年玉をもらったような光景にであった。それも中学生の男の子だ。こういうことである。

 今日で2回目かな。家族連れなんだがその家族の構成が前回は6人だったが今日は5人である。まず50代の奥さんに中学生の男の子と小学校高学年であろう女の子。それに94歳だというおじいさんに80代のおばあさんというメンバーである。これだけでは普通の家族だが、ところがお年寄りお二人は歩行困難で家族に抱えられるようにしてやっと歩くんである。

 こんな状態でなぜ銭湯に?とフツーなら思うけど、おそらくおじいちゃんが昔のお客さんなんであろう。当湯(うち)の風呂に入りたいと言われるらしく車で見え、全員がサポートしての入浴となるんである。今日はお父さんが見えなかったので、男湯は中学生とおじいちゃん。女湯がお母さんに小学生の女の子がサポーターである。

 アタシへのお年玉と書いたのは、この男の子の涙ぐましい(当人はそんなこと思ってもいないだろうが)介護状況に感心したことなんである。独りでは歩けないおじいちゃんに男の子が背中から抱きかかえるようにしてソロリソロリと脱衣場へ入る。

「大丈夫?よく面倒をみてよね」

「大丈夫です」

 脱衣場では衣服を脱がせまたまたソロソロと抱えるようにして浴室へ連れていく。アタシャときどき偵察だ?。男の子は本当によく面倒を見るよ。椅子に座らせて体から頭まで洗ってやり、浅い浴槽に抱えるようにして入る。上がってくれば着替えをさせてまたソロリソロリと連れて出てくる。

 一緒に入っていた数人の人たちが感心しきりだったが、誰でもそう思うだろう。とにかくエライ子だよ。そしてこのような子に育てた親の躾にも感心せざるを得ないなあ。アタシャ、古きよき日本の家族の姿を垣間みる思いだった。

 こんな家庭が世間にもっともっと多かったら、陰惨な事件も起こらず世の中ぐ〜んと明るくなるんだけどなあ。中学のお兄ちゃん、お年玉アリガトね。

2007年01月06日

テレビはねえ

 フロントにいつもテレビの番組表を置いていく。脱衣場のテレビは湯上がりに軽く眺める程度であるから、ニュースや話題のスポーツなどのほかは肩の凝らないものを選んで掛けるようにしているんだ。「これから××があるから視なくっちゃ……」と急ぎ足で帰られるおばちゃん。「××を視ていたら遅くなっちゃった……」などといってやって来られるおじちゃんなどなど、ドラマ的なものは茶の間でじっくり視るもののようである。そういえば昭和30年代に紅白歌合戦が80%余の視聴率で国民的番組といわれた頃、当時の銭湯にはまだテレビを置いてなかったんだが、大晦日の混雑も紅白が始まるとお客さんがいなくなってしまう。で、「紅白がみたくて風呂に来ないなら銭湯で見せてやろう」と、その頃にしては大型のテレビを奮発して入れたんだが、紅白は茶の間で視るものなんであろう、思惑も空振りだったことを思い出すなあ。

 というようなことで、今日も単純な番組を掛けておいたんだ。そんなところへ脱衣場から出てきた70年配の男性。ちょいと嘆くような口調でアタシに話しかけてきた。


「この頃はもう仕事もやってないから、楽しみっていえばテレビぐらいなんだよなあ。ところが俺らには今、流行りの「お笑い」っていうの、あれがつまんないんだよねえ。時代劇もやってないしテレビを掛けるとガキみたいなタレントがワアワア騒いでる番組ばっかりだろ。ツマンナイねえ」

 なるほど。テレビが唯一の楽しみであり、親友みたいな存在になっている年配の方には確かに「お笑い」とやらが氾濫?している昨今の番組は馴染めないでしょうなあ。アタシもその手の番組は好きじゃないが、大体アタシはあまりテレビを見ないし、また、見たくなければスイッチを切ればいいんだけど、テレビが無ニの楽しみな人には見たい番組がないことはセツナイでしょうなあ。

 ここでアタシャちょいと気取ってテレビ批評をしてみようと思うんです。エラソーに、なんて言わないでね。

 平成14年に全国浴場新聞に載せたコラムの焼き増しなんだけど、文中の出だしは「永六輔著・芸人その世界」からの引用です。「昭和46年8月1日、徳川夢声が死んだ。『話芸の神様逝く』の見出しが各紙をかざった。話芸の神様とは何をいうのだろう。誰もがいうことは『間』のうまさである。活動弁士としてスタートした徳川夢声は他の弁士がいかに喋るかを努力しているときにいかに黙るかを工夫した。いかに黙るかということはいかに『間』をおくかということになる。これは今日の芸能界ではまったく無視されているわけで、スットンキョ−な声でペラペラやればとりあえず仕事にありつけるのだから世の中変わった」。と六輔さんは述べている。

 アタシもまったく同感だ……喜劇の世界がなくなり「お笑い」というよくわからんジャンルの中で棲息している手合いのなんとまあお粗末なことか。一応、話芸の出となっていながら、間もテンポもへったくれもない。ただわめいているに過ぎない。これはもう「ふざけている」だけである……。今の芸能界、テレビが主流である。そしてテレビにしがみつく大多数が若年層である。で、視聴率絶対のテレビ界は「なんだって構わん。数字が取れたらそれがいい番組になるんだ」と、テレビのいうことならすべてOKの若者を操り、ギャアギャアわめくことが芸であると洗脳していく。わびしいことである……。テレビの中に「芸の世界」がなくなっていく。

 全てを「バラエティ」の言葉でひっくくって愚にもつかない番組がのさばっているご時世だ。テレビ評論家の麻生千晶さんだったかが「視聴率なんかなくしてしまえッ」と何かに書いていたが、次代の日本の文化を支えていく若者が視聴率の餌食?になり、軽薄な「お笑い」に毒されている限りもう本物の芸人なんか育たないんじゃないか−−とまあ、風呂屋のオヤジがテレビの現状について慨嘆したんだが、若いアンタだってそう思わない?。エッ、テレビは最高に面白い?。今時、芸だなんだってリキんでいるオヤジが古いんだって?。

 ウーン、お客さんさァ、アタシらはもう古いんですってさ−−。

2007年01月04日

銭湯ダンナーズ

 元日の日本テレビ「大笑点」から揃いの赤い法被を着た中年のグループが銭湯の浴室で ♪エンヤァトット エンヤァトット…♪ のお囃子にのり、櫓を漕ぐ振り付けで明るい民謡の歌声が流れてくる。アタシャ、ホウ、活躍ですなあ、と楽しく眺めていたんだ。「銭湯ダンナーズ」の皆さんなんです。

 銭湯ダンナーズっていうのはね、以前このブログにも書かせてもらったんだけど、もう一回おさらいをすると、世田谷の銭湯経営者による民謡グループなんですな。3年前に「日本民謡協会」の講師の資格を持つやはり湯屋のダンナであるYさんを中心に結成されたんですって。

 メンバーは7人。

 そして高い天井に歌声がコダマする浴室で特訓・特訓によってプロ級の歌唱力を身につけてね、現在はあっちこっちのイベントから引っ張り凧になり、さらにはテレビ局からもお呼びがちょいちょい掛かるという売れっ子になっちゃったんですなあ。こうなっちゃうと本職の風呂屋が余技になっちゃうんじゃないですかねえ。

 昨年の暮れだったけど、中年の常連男性が話しかけてきたんです。

「オヤジさんよぉ、お風呂屋の人たちが民謡グループを作って活躍してんだねえ」

「ホホウ、よく知ってますなあ。世田谷の銭湯ダンナーズという民謡会でしょ?」

「そっそっ。本に出てたもんねえ」

「本?、ああ散歩の達人という雑誌でしょ」

「そっそっ。俺、あの本が好きで時々読むんだけど、風呂屋のおやじさんも芸達者な人がいるんだねえ」

「そうね、アタシみてえなフロントにのっそり座っているだけで能のないもんもいれば、趣味を生かして社会的に活躍してる人も多いんだよね」

 実はね、前にもちょっと触れたけど、銭湯ダンナーズのメンバーにSさんというアタシの身内がいるんですよ。だからね、ダンナーズの活躍はアタシにとっていつも関心大ありなんですな。で、「散歩の達人」という本にダンナーズの記事がでているとSさんから聞いたときに早速一冊求めたんです。時の人は?大きく載っていましたなあ。例によって一部を引用させてもらいます。

 本をめくると2頁いっぱいに赤い法被姿のメンバーの写真が眼に飛び込んできた。7人の侍が思い思いのポーズでにこやかに写っている。そして「ヤア!ヤア!ヤア! 銭湯ダンナーズがやってくる」の見出しでメンバーのプロフィルが紹介されている。

『還暦過ぎて夢見るダンナーズ。平均年齢六十五歳、平均余命十四年 習い事やればやる程人前に発する心たじろい深し、いらしてください銭湯に』という前触れからダンナーズの活躍の様子が書かれている。

『−−05年6月、「民謡お国めぐり」と題したイベントを決行。バンド名はそのときに誕生した。銭湯のダンナの集まりだから「銭湯ダンナーズ」。シンプルである。このイベントは大成功。受けに受けてテレビの取材は来るわ、介護施設から出演依頼は舞い込むわ。ただの風呂屋のオヤジは一躍有名人に……

 そして、イベントは回を重ねるごとにファンも増え多いときは70〜80人が詰めかける。今やおっかけまでいるとか。

 勢いづく彼らの夢は紅白出場だ。オリジナル曲「銭湯音頭」をひっさげて、来年の大晦日を狙う……さて日曜の銭湯。「民謡お国めぐり」の会場は熱気を帯びていた。ひとりひとりお立ち台に上がって自慢ののどを披露するダンナーズの面々。浴室独特の音響効果も手伝っていい声が響きわたる。唄にあわせて踊りは入るし、気合たっぷりに「エンヤトット」の船だって漕いじゃう……。

 客席では両手を大きく広げて気持ちよさそうに手拍子する人、一緒に口ずさむ人。あったまるなぁ、「銭湯ダンナーズ」。銭湯での民謡は、やっぱりなんだか和んじゃうのでした』

 ということなんだが、スゴイねえダンナーズ−−。この分じゃ来年の大晦日は脱衣場に銭湯音頭が朗々と響き渡るかもしれないな。

 ♪ のれんくぐれば湯の香り広い湯舟でゆったりと今日に疲れを湯で流す銭湯よいとこ いやしの湯 ♪。待ち遠しいなあ来年の大晦日−−。

2007年01月03日

老いを感じるねえ

 男の子が二人、にこにこと入ってきた−−。

「おじさん、しばらくです……」

「しばらく??……オウッ、ケン坊かァ、そしてお前はダイスケッ……。ウーンそうかあ。でっかくなったなあ」

「ええ、僕がハタチになって弟は16です」

「ウ〜ン、そうかあ、ケン坊とダイスケかあ……」

 懐かしいなあ。いったい何年ぶりになるんだ。ケン坊一家との付き合いが走馬灯のように思い出された。

 この二人、お母さんの胎内にいる時からの常連だったんだ。両親が結婚して間もなく近所のアパートに住むようになり、雨の日も風の日も当湯(うち)へ来てくれていたんだ。そしてケン坊が生まれた。よちよち歩き出した、幼稚園に入った、入学した……その間にはダイスケが生まれたし……。二人の成長を眼のあたりにしてきた。ケン坊・ダイスケと家の者のような呼び方もしてきた。そんな二人がこんなに大きくなって現れたんだ。

 ただ懐かしい−−。

 あれはケン坊が高校受験の時だった。

「おじさん、今度A高校をうけることになったんですよ」

「ホウ、もう高校かァ。それで受験日はいつだ?」

「○月×日……」

「そっか」

 アタシャフロントのカレンダーに印をつけた。

 受験日。ケン坊に「どうだった?。そっか、まあまあだったか。それで発表はいつだ?」。アタシャまたカレンダーに印をつけた。

 発表の日、アタシャ店にいてもなんとなく気掛かりだった。夕方、ケン坊はちょっと勇んだ足取りでやってきた「どうだったッ?」。ケン坊は何も言わずカウンターを手でバシッと叩いた。

「やったか」

「ウン!」

「そっか、よかった頑張ったなあケン坊……」

 アタシャ我が子が合格したような感激が走った。

 そして後日、このことを浴場広報誌「1010」に書かせてもらったんだ。

 そして、またそしてとなるが、この記事を読んだ毎日新聞の女性記者さんが取材に訪れたんだ。今、古い記事のファイルをめくってその毎日新聞を引っ張り出した。一部を引用させてもらうためにね。平成16年10月の毎日夕刊であり、「うぃ〜らぶゆ・東京銭湯物語」というタイトルの記事である。「消えた番台。続くふれあい」の見出しでアタシへの取材内容が載っている

 銭湯から番台が消えていく。今、客を引き留める工夫がなければ生き残れない。脱衣場が丸見えの番台には抵抗がある人もいる。だから、都内の銭湯の3分の2が、入口で入浴料を払うフロント式になった。

 星野さんが親戚の経営する銭湯に修業に出たのは15歳の時だ。10年目に番台に座った当時、1日の客は800人。今は百数十人。子供がめっきり減った。

「大人はここで子供を叱ったもんだ。子供は銭湯で世間を知る。大げさだけど教育の場だったよ」……。

 ケン坊は母のおなかの中にいた時からの常連だ。高校受験。星野さんはカレンダーに丸をつけて合格発表を待った。ケン坊がカウンターをたたいた。「やったよ」。この秋。両親が菓子折を持って、マンションに越したとあいさつに来た。17年間成長を見てきた子に、もう会えなくなる。「家に風呂ができても、たまには遊びに来てくれよな」と願う。ケン坊にはちゃんとその気持ちが伝わっている。家の小さな浴槽には、なかなか慣れない。近いうち、さくら湯に行って伝えたいことがある。

「おじさん、就職、決まったよ」……

3年前の新聞である。そういえばいつだったかケン坊が一升瓶を持ってきて「今度就職することになりました」と挨拶に来てくれたなあ。ケン坊もそしてダイスケも、両親の躾のよさであろうが、素直で明るい子供だったが今でもその性質は変わっていない。

「久しぶりだ。ゆっくり入っていきなよな−−」

 お客さんの気質が年とともに変わってきている昨今、銭湯の有り様もまた大きく変化している。ケン坊一家との家庭的な交流風景などもなくなっている。

 ケン坊、ダイスケよ。おじさんはね「ケン坊たちがお風呂で育った頃はとても楽しかったなあ」としみじみ思っているよ−−。

2007年01月01日

朝 湯

 大晦日は思ったよりよかったなあ。

 一年の締めくくりで程々の期待は持っていたんだが、想像以上だったといってもいいかな。もっともこの手の感覚は期待感の持ち方にもよるんだ。近年は程々の期待をすると大抵は裏切られるのが常。控え目で、その控え目の範囲を越すと思ったより……となる。

 今日は開店早々から引きも切らず…はちと大げさだが出足は順調だった。いつも早く見えるジイチャン、バアチャンだけではなく、若い世代が結構みえてくれたんだよね。最近、このような銭湯育ちではない人たちが折りに触れて足を運んでくれるようになっているんだ。

 銭湯愛好会のグループ「東京入浴会」の幹事であるN氏がいつぞや「ホシノさん、今の若い人の間に銭湯ブームなんですよ」と言ってくれたことがあったけど、風呂屋のオヤジにはブームと呼ばれる程の実感はないものの何となく手応えみたいなものは感じるんだ。

 アタシャ、何の商売でも若い人に受けないものには先がないと思っているから、今後ともこの傾向が続き広がってほしいと願っているよ。

 さて正月だ。新春のスタートは2日の朝湯から始まる。この風習は江戸の中期から延々400年に渡って続いてんだからスゴイと思わないかい。江戸時代は正月2日の朝湯を初湯といって、1年は初湯から始まるといわれてたんだ。なにしろ混んだんだ。混んだんだ−−なんて見てきたように言うけど、銭湯の本にはそう書いてある。とにかく明け六つ(今の午前6時)から暮六つ(午後6 時)迄の営業だったが、実際はもっと長くやってたらしく開店前の真っ暗いう ちからもう並んで待っていたんだって。当時の川柳に「締め出しのように朝湯を待っている」や「内の戸があかぬと湯屋の戸を叩き」なんていうものもあるし、その混雑ぶりが本には「風呂ん中で睾丸が隣の周りの人にあたったり、尻がオデコにぶつかり、背中がくっつき、脚が他人の脚と絡んじゃう」などと表現されてんだ。

 そしてね、このような朝湯風景はその後多少の変化はあっても明治・大正から昭和30年代まで続いたんだ。アタシがこの稼業に入ったのは昭和25年だったが、今でも「滅茶苦茶混んだなあ」と思い出す。営業時間は江戸時代と同じく午前6時から夕方までだったけど、開店と同時にウンカのごとき大群が押し寄せ、浴室内はまたたく間に満杯でごった返しのイモ洗いさ。番台はゼニを掻っこむような状態であり、裏方の番頭は1年で一番いい燃料を用意して寒中だというのに汗を飛ばして阿修羅の奮戦だったねえ。今日ビの5倍位の売上げだったんじゃないかなあ。

 さてさて、ここんところ銭湯模様を書くとついつい「昔はよかった」的な懐古趣味になっちまうが、アタシも老いたんだねえ。これじゅあイカン。さっそく今日の朝湯へ戻ろう。開店は8時、閉店は午後1時だ。ガラガラッとシャッターを開けるやすでに十人以上のお客さんがスタンバイなさっていた。初湯の一番風呂を求めての方々だが、この状況はこれまた江戸時代から連綿と続いてんだな。ウソじゃない、またまた本から引用するけど、お江戸の朝湯をこう書いてある。

銭湯での朝湯・初湯が江戸時代の人々の長い習慣となり、朝起きると楊子をくわえ、手ぬぐいを下げて銭湯に急いだものである。それで日常、銭湯の常連は宇治川の先陣争いじゃないが第一番に湯ぶねに飛び込むことを自慢にし、銭湯の戸がまだ開かぬ前にいってあくのを待つ程だった……

 ねッ、一番風呂を求めて宇治川の先陣争いの習慣がまだ残っているなんて、アタシャ、これぞ銭湯の朝湯であり、江戸時代の粋だな〜んて思っちゃう。江戸の粋が平成の御代にあるんだからいいよなあ−−。

 ということで、先陣争いからお昼頃まで今日の朝湯はまあまあだったんじゃないか。そりゃあ全盛期からみたら大したこたあないが、しかしね不況風に吹きまくるご時世じゃ悪くなかったんじゃないかと思うよ。

 今年は少しでもいい年になってほしいなあ−−。






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