銭湯は寄席ですよ
先日、このブログに書かせてもらった墨田区の高齢者事業「湯処・語らい亭」に今回、講釈師の田辺一鶴さんが出演したんだ。今まではボランティアの人達がプロはだしの芸を見せてくれていたが、本物の芸人さんが出てくれたのは初めてである。お弟子さんである女流講談師とスタッフの女性の3人連れで1時間半をフルにつかって大熱演。20人の参加者は一鶴ワールドを十分に味わったようでしたな。
一鶴さんは銭湯の応援と講談の普及を目的に今、都内の銭湯行脚?だそうであり、全国の浴場を制覇すると笑って話している。「東京ニュ−ヨク寄席」と染め抜いた幟を立てての講談会である。もちろん入浴とニューヨークを掛けたしゃれだろうが、講談を東京の銭湯を発信地にしてニューヨークへさらには世界中に広めようとの大いなる意気込みとアタシは勝手に解釈してんですけどね。
そして、こっからは一鶴師の話から外れるが、アタシャ「ニューヨク寄席」の文字を見てちょっと思ったんだ。銭湯と寄席−−この二つはかなり共通点があるようなんだ。寄席は「笑いを中心に、癒し、安らぎ…」など、世知辛いご時世に誰もが求めているエッセンスみたいなものがウリだよね。銭湯もね寄席に習い「憩い、安らぎに笑い」などの詰まった空間にしたいし、その要素は十分あると思うんだ。広い銭湯に入浴することで憩い、安らぎ、ゆとりを感じてもらい、笑いの生じる会話ができるような交流の場所であったらそれこそ庶民の「湯処」じゃないか−−とね。
そこで思い出したのが、ちょっと古い本なんだが「スコッチと銭湯・田村隆一著」なんだ。田村さんは詩人であり酒豪でありそして粋人としても評の高かった人なんだが、とても銭湯を愛してくれた人なんだよねえ。その田村さんが「スコッチと銭湯」の中でこんなことを書いてくれている。
「−−風呂屋に行くというのはどうも寄席に行くって感じなんだなあ…銭湯に入る、すると客ではあるが一種の演技者でもあるのさ。それぞれ一人一人が個性を持っていて、着ているものの脱ぎ方、身体の洗い方、喋り口の違い…しかも演技者達は同じ町内の人だから、個性と個性が湯気の中から調和をつくりだす、やはり銭湯は寄席ですよ…家族というタテ糸と、町内のヨコ糸の交わる処に銭湯がある。つまり欧米の教会の役割を銭湯が小さなコミュニテイではたしているような気がする…銭湯とはただ湯につかって身体を洗う空間ではない。たとえば子供と銭湯通いをする。子供は、はじめ手伝ってもらって、こわごわ湯船に入るのだが、やがて自立するようになる。自立するためにはマナーとかしつけがものをいう。やがてその子にプライドが芽ばえ、大きく育っていく…魂の開放感は銭湯という教会に詣でなければ味わえませんよ……」
いかがでしょう銭湯寄席論。田村さんはその昔の銭湯風景を洒脱に描いてくれたんだが、現代の銭湯もそうありたいねえ。しみじみ思うよ、
ということで今日はいつもと違い真面目なブログになっちゃったけど、アタシャもともとキマジメな人間ですからねえ−−。






